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吉田 公(よしだ ただし)

最終更新:2026年10月24日

「継続は力なり」
国立高校美術科教諭を34年間務め
来巣会・幹の会を主宰した洋画家。
教え子であり来巣会後輩でもある依田 純が
生前繰り返し伝えられた言葉。

掲載資料について
このページは、公刊資料に加え、ご親族からご提供いただいた資料やお話をもとに、吉田公の生涯と画業を記録する個人アーカイブです。貴重な資料や情報のご提供に感謝し、それぞれの情報の性質と出典を明記したうえで、確認できた範囲を掲載しています。未確認の事項については、現時点での調査状況を記しています。なお、掲載資料には、ウィキペディア日本語版の出典基準を満たさないものも含まれるため、同版への転載・投稿を目的とするものではありません。

吉田 公(よしだ ただし、生年は大正8年〈1919年〉生と大正9年〈1920年〉生とする公刊資料がある[4][11]。ご親族の情報では大正8年生とされる[12])は、日本の洋画家・美術教育者。東京都立国立高等学校(通称・国高)に昭和21年(1946年)から昭和55年(1980年)までの34年間美術科教諭として勤務するかたわら、昭和48年(1973年)に美術グループ「来巣会」を創設・主宰した。会員有志による「五人展」(のちの「幹の会」)にも名を連ね、平成7年(1995年)には教え子たちの「国立高校OB美術展」発足の中心人物ともなった。平成13年(2001年)4月29日逝去。

概要

吉田は東京美術学校(現・東京藝術大学)在学中から独立美術協会に出品しており、第12回展(昭和17年)「仁王」、第13回展(昭和18年)「ひまはり」の出品が確認できる[14]。卒業後は独立美術協会・モダンアート協会に所属して洋画家として活動する一方、昭和21年(1946年)10月、復員後の職探しの中で偶然の縁から都立国立中学校(後の国立高等学校)の美術教師となった[2]。教育者としては34年間にわたり国高で美術を教え、面倒見のよさと人望から多くの教え子に慕われた「名物先生」として記憶されている。定年退職後も昭和59年(1984年)3月まで非常勤講師として同校に勤務した[3]。

1973年、吉田は東京美術学校時代の友人・松井宏らと来巣会を発足させた。1987年の15周年記念パンフレットには、清水龍雄、竹松泉、露木康雄、松井宏、竹中利夫、吉田公の6名で結成したと記されている。その後は吉田が通信物の制作、松井が事務局を担当して会を運営した[1]。この来巣会の活動から派生した「五人展」(のち「幹の会」)にも継続して参加し、また国高OB美術展の礎も築くなど、画家としての場と教育者としての場を自在に行き来する人物だった。なお、来巣会と国立高校OB美術展は、それぞれ異なる経緯で発展した活動である。(詳細は「吉田 公が遺した二つの場」参照)。

経歴

年 出来事
大正8年(1919年)※『美術年鑑』の記載は大正9年(1920年)生[4][11] 誕生。生年はご親族の情報提供[12]。出生地は福島県双葉郡浪江町で、幼少期は神奈川県横須賀で過ごし、その後、東京の国分寺町(現・国分寺市)に転居。逝去まで国分寺で過ごす[20]。
昭和17年(1942年)3月 独立美術協会第12回展に「仁王」を出品(第十三室)。東京美術学校在学中の出品にあたる[14]。
昭和17年(1942年)9月 東京美術学校(工芸科図案部)卒業。卒業後は、千葉県内の部隊で従軍し[20]、戦後は洋画家として活動した。専攻と卒業後の画業との関係については、後述「洋画家としての活動に至る経緯」を参照[9][18]。
昭和18年(1943年)3月 独立美術協会第13回展に「ひまはり」を出品(第十室)。卒業後初めての出品にあたる[14]。
昭和21年(1946年)10月 復員後、中央線の車内で偶然出会った中学生に美術教師の有無を尋ね、都立国立中学校に美術教師として着任[2][3]。
(着任後) 独立美術協会・モダンアート協会に所属して洋画家として活動を継続[4]。独立美術協会の具体的な出品歴は上記昭和17・18年の記録のほか、「代表作・現存する作品」を参照。
昭和48年(1973年) 東京美術学校時代の友人・松井宏(鋳金部、昭和17年9月卒業)らと美術グループ「来巣会」を創設。事務所は松井宏の自宅(神奈川県相模原市)に置かれた[5][17]。
昭和55年(1980年)3月 国立高校の教諭を退職(3月31日)。教諭として34年間を勤めた[3]。
昭和55年(1980年)4月~昭和59年(1984年)3月 同校の非常勤講師として勤務(『国高五十年史』の職員一覧では職名欄「非講」、教科欄「美」)。「愛車(ポンコツ自転車)」で通い続けた[3][6]。退任日は同書で括弧付きで記載されており、括弧の意味は未確認。
昭和56年(1981年)9月 国高同窓会会報「たちばな」創刊号にコラム「国高と共に三分の一世紀」を寄稿[6]。
昭和59年(1984年) 『多摩の作家250人』(たましんギャラリー)に経歴が収録される[4]。
昭和59年(1984年)6月 「たちばな」8号にて日本画家・宮本和郎氏(国高30年卒)と対談[7]。
昭和60年(1985年) 来巣会会員有志により、国立を会場に「五人展」(のちの「幹の会」)が始まる。多摩地域在住の会員による派生企画とみられる[13]。
平成4年(1992年) 来巣会20周年記念展を開催、記念誌『来巣20th』に「二十周年記念に祝杯を!」を寄稿[5]。
平成7年(1995年) 「五人展」が10回目を機に「幹の会」に改称[13]。同年、教え子たちによる「国立高校OB美術展」第1回展も、吉田を中心に13名の参加で発足(三鷹市美術ギャラリー)[8]。
平成9年(1997年) 5月、第25回展の開催年に25周年を期して幕を閉じる。「幹の会」とは数年にわたり並行して活動していた時期がある[1][13]。
平成13年(2001年)4月 逝去。
平成13年(2001年)9月 「たちばな」42号に、教え子であり来巣会後輩でもあった依田 純による追悼文「吉田 公先生を偲ぶ」が掲載される[1]。
平成13年(2001年) 第6回国立高校OB美術展にて遺作が展示される[8]。
平成28年(2016年) 第20回記念国立高校OB美術展にて遺作コーナーが設けられる。展示作品ポストカードの記載から、独立美術協会出品作「仁王」と同一とみられる作品の存在が推測された[10][15][20]。

国立高校での34年間

『国高五十年史』の資料編(職員一覧)には、吉田の着任・退職年月日と担当教科が記録されている。教諭としては昭和21年(1946年)9月30日着任、昭和55年(1980年)3月31日退職(教科欄は「図」)、その後は非常勤講師(職名欄は「非講」、教科欄は「美」)として昭和55年4月1日から昭和59年(1984年)3月まで在職したと読み取れる[3]。吉田自身が「たちばな」創刊号に寄せたコラム「国高と共に三分の一世紀」には、復員直後の食糧難・就職難の時代に、たまたま中央線で見かけた中学生に「美術の先生は」と尋ねたところ「いない」と返ってきたことが赴任のきっかけだったと綴られている。

同コラムでは、学園紛争期の混乱(校内デモ・放送室占拠・機動隊の巡回)や、その渦中で体調を崩し他界した岩崎校長への追悼、甲子園出場という「夢」の実現、そして自身の回想では、授業への遅刻に対して行った体罰を「ハナピン」と呼んでいたと振り返っている。男女を問わず適用したとも記している。定年退職の翌年(昭和56年)の時点でも、講師として「愛車(ポンコツ自転車)」で通い続けていたことが記されている[6]。これは上記の非常勤講師としての在職期間にあたる。

教え子・依田 純の追悼文によれば、美術部の部室は吉田のアトリエでもあり、石膏像に囲まれた空間で生徒たちはデッサンの基本を学ぶと同時に、吉田を慕う卒業生たちが連日訪れて美術談義に興じる場でもあった[1]。依田は在校当時(昭和30年代)の吉田の画風を「力強い輪郭と色調、ルオーを思わせる厚塗りの画肌」と描写している。

来巣会の創設と主宰

昭和48年(1973年)、吉田は東京美術学校時代の友人・松井宏らと美術グループ「来巣会」を発足させた[1]。松井は同校工芸科鋳金部、吉田は同科図案部の出身で、ともに昭和13年度入学・昭和17年9月卒業(戦時の繰り上げ卒業)の同期にあたる[18]。事務所は松井宏の自宅(神奈川県相模原市)に置かれ(松井の逝去後の『美術年鑑』1996・1997年版では、世田谷区の会員・垣本浩輔方と記載)、毎年5月と11月に東京都心での展覧会を積極的に展開、著名なタレントなど多彩な人々との交流も生まれたという[17]。

『美術年鑑』の記録では、吉田の個展回数は昭和49年(1974年)版で8回、昭和51年(1976年)版で10回、昭和52年(1977年)版以降は11回、平成8年(1996年)版・平成9年(1997年)版で12回に増えており、渡欧回数も1回(1974年版)から2回(1975~1977年版)、3回(1978年版以降)へと推移[4][11]。『美術年鑑』には、1974年版から1992年版まで一貫して来巣会の会員として吉田の名が掲載されている(1993~1995年版は来巣会の頁自体がなく、1996・1997年版で再び掲載)[11]。同じ1996・1997年版では、来巣会会員のうち垣本浩輔・小島和雄・依田 純・吉岡正治の4名の略歴に「師吉田公」と記載されており、吉田・依田 純・川端みち子(1997年版では阿部みどりも)の略歴には「幹の会」の記載がある[11]。

松井宏の逝去後、会の活動状況にも変化があり、来巣会は1997年、第25回展の開催年に、25周年を期して幕を閉じた。その経緯について、資料には吉田の健康上の事情も記されている[1]。

なお、来巣秋季展が昭和58年(1983年)に第8回で終了すると、会員有志により昭和60年(1985年)、国立を会場とする「五人展」が始まった。平成7年(1995年)第10回展開催を機に「幹の会」へと改称。吉田没後も継続し、平成16年(2004年)の第10回展をもって来巣会員の活動は終了した[13]。幹の会は来巣会からの派生企画であり、来巣会とは別団体の「国立高校OB美術展」とは直接の系譜関係にはない(吉田没後、幹の会に名を連ねた国高関係者は依田 純のみ)。幹の会の詳しい沿革は「来巣会」ページを参照 。

国立高校OB美術展との関わり

平成7年(1995年)、美術部OB会有志の提案により、吉田を中心に美術部に在籍した人たちの作品展として「国立高校OB美術展」第1回展が、吉田を含む13名の参加で三鷹市美術ギャラリーにて開催された[8]。これは来巣会・幹の会とはまた別の系譜にある、国高美術部の教え子たちを主体とした展覧会である。来巣会と国立高校OB美術展は、それぞれ異なる経緯で発展したが、吉田は画家としての活動と教育者としての活動を通じて、両者に関わっていた。

吉田の逝去(2001年)後も本展は継続し、第6回展(2001年)と第20回記念展(2016年)では吉田の遺作が展示された[8][10]。2016年の第20回記念展を紹介する文章では、「現在の出品者のほぼ全員が吉田先生の教え子で構成されており、まさに國高芸術の継承者なのです」と評されている。本展の詳細な沿革は「国高OB美術展」ページを参照。

代表作・現存する作品

独立美術協会 出品歴

東京文化財研究所編『昭和期美術展覧会出品目録 戦前篇』(中央公論美術出版、2006年)の索引・本文により、以下の出品歴が確認できた[14]。

回 年 出品作 室
第12回 昭和17年(1942年) 仁王 第十三室
第13回 昭和18年(1943年) ひまはり 第十室

「仁王」の現存確認

国立高校OB会に、第20回国立高校OB美術展(2016年5月25~29日、三鷹市芸術文化センター)で吉田の遺作展示を行った記録と共に、「国分寺 仁王 1942年 吉田公」と記されたポストカードが残されている[15]。制作年(1942年=昭和17年)が独立美術協会第12回展の出品年と一致することから、同一作品と考えられる。

このポストカードは、2001年の逝去に際して「仁王」を含む3種のポストカードを作成し、国立高校OB美術展においても配布したものであること[20]、「仁王」が国分寺市にある武蔵国分寺の仁王像を描いた作品であること、そして原画の所在について、ご親族の情報提供によって明らかになった[20]。この作品が在学中の課題か個人制作かについては、なお未確認である(「今後の調査課題」参照)。

一方、「ひまはり」(第13回展出品、昭和18年)についてはご親族の把握されている範囲では、所在が確認できていない[20]。

自己申告と一次資料の食い違いについて

独立美術展の第12・13回以外の出品・モダンアート協会での活動実態については、同書の収録範囲(戦前篇、昭和6~19年)を超える戦後の活動も含め、引き続き調査中である。

人物像・エピソード

芸術観

「たちばな」8号に掲載された宮本和郎氏(日本画家、国高30年卒)との対談では、「絵かきには二つの相反する気持がある」として、世に売れたい・有名になりたいという気持ちと、「俺はオレの道を行く」という気持ちの両方があるとした上で、自身は後者だと語っている[7]。また「結局はその絵の芸術性の価値評価は、歴史が決めるんだと思う」とも述べている。

画風の変化

依田 純の追悼文によれば、在校生時代(昭和30年代)の力強い輪郭とルオーを思わせる厚塗りの画風から、近年(晩年)は繊細で柔らかく穏やかな独自の画風へと変化した[1]。散歩好きで、人が見向きもしない流木や落ち葉に興味を持ち、それらを細かく観察して絵に再生することを好んだという。ある芸術大学の教授が落ち葉の絵を見て「身が震える程素晴らしい」と絶賛したというエピソードも記録されている。

口癖・人柄

依田 純は追悼文の中で、吉田からよく言われた「継続は力なり」という言葉を、自身の闘病生活の支えにしたと記している[1]。2016年の国高OB美術展20回記念での紹介文では「面倒見がよく、生徒と一緒にキャンプに行ったり卒業生の仲人を引き受けるなど、とても人気のあった名物先生」と評されている[10]。

名前の読み方をめぐる誤解

「公」の読みは「ただし」だが、生前は「こう先生」「キミ先生」などの呼び方も用いられていたと伝えられる。依田純も「よしだこう先生」と呼んでいたという。葬儀の際、参列者の間で正式な読みが話題になった[16]。

依田家が所蔵する吉田の油彩画1点には「T. Yoshi」のサインがある。頭文字の「T」から名前の読みについて疑問を持った依田純の親族が、2026年5月開催の第30回国立高校OB美術展に足を運んだ際にOB会関係者に尋ね、「ただし」であることを知ったという。吉田本人が呼び方についてどう受け止めていたのか、現在確認できる資料からは分からない。

吉田 公が遺した二つの場

吉田 公という一人の人物を介して、互いにほとんど交わらない二つの活動がつながり、晩年にかけて重なっていった。これらは吉田没後もそれぞれ独立して継続しており、両者を横断的に知る関係者はごく限られる。

場 性格 詳細
国立高校・国立高校OB美術展(教育者として) 34年間の公的な職務が礎。美術部部室が事実上のアトリエでもあった。教え子主体の展覧会として1995年発足、現在も継続。 → 「国高OB美術展」ページ参照
来巣会とその後継「幹の会」(専門画家の主宰として) 芸大時代の友人を中心に発足。美術を専門的に学んだ会員や、継続的に制作・発表を行う会員が作品を発表する場。1985年、会員有志による派生企画「五人展」が始まり、1995年「幹の会」に改称、吉田没後も依田 純を中心に継続。 → 「来巣会」ページ参照

今後の調査課題

1. 生年表記のずれの理由

生年については、ご親族からの情報では大正8年生とされる[12]。一方「美術年鑑」には一貫して大正9年(1920年)生と記載しており、同じく公刊された美術関係資料「多摩の作家250人」に記載の大正8年(1919年)生と違っている。「美術年鑑」に大正9年生と記載された経緯は、現時点で確認できていない。

2. 出生地・生い立ち・従軍経験について(一部解決)

2026年9月27日付のご親族の書簡により、出生地は福島県双葉郡浪江町であること、幼少期は神奈川県横須賀で過ごし、その後、東京の国分寺町(現・国分寺市)に転居して、逝去まで国分寺で過ごしたことが分かった[20]。また同書簡によれば、昭和17年9月に東京美術学校を卒業した後、千葉県内の部隊で従軍したとある[20]。

一方、従軍については、部隊名・所属(陸軍か海軍か)、入営または召集の時期、復員の時期が未確認である。特に、昭和18年(1943年)3月の独立美術協会第13回展に「ひまはり」を出品している点との前後関係は分かっていない。少年期・青年期の経歴など、この画業の「そもそものはじまり」にあたる部分として課題が残る。

3. 洋画家としての活動に至る経緯

東京藝術大学が公開する卒業者名簿には、昭和17年9月本科卒業の「吉田 公」の記載があり、これは図案部に区分されている。しかし吉田の以後の活動記録・所属団体(独立美術協会、モダンアート協会等)はすべて洋画系であり、図案(デザイン)専攻から洋画家への転身がどのような経緯によるものかは分かっていない。

2026年9月、東京藝術大学未来創造継承センター大学史史料室への照会により、制度面の疑問は解けた。「図案部」は卒業後の所属区分ではなく、東京美術学校「工芸科」内の専攻区分であり、吉田は昭和13年度入学の予科からこの専攻に一貫して在籍、卒業制作も能装束・面のデザインという工芸系の題材だった[18]。共同創設者の松井宏も同様に、卒業後の区分ではなく工芸科鋳金部に一貫して在籍しており、卒業制作は植物の芽の形態にもとづく鋳金作品だった[18]。国立国会図書館所蔵『東京美術学校一覧』(昭和14至15年)によれば、図案部・鋳金部とも学科課程に「絵画実習」が週18時間以上組み込まれており、洋画の基礎を学ぶ機会自体はあったとみられる[19]。

大学史史料室によれば、在学中に専攻を移った記録はなく、卒業後の洋画家への転向は在学中の課程によるものというより、卒業後の交友関係等の影響である可能性が高いとのことで、この転向の経緯そのものは、なお分かっていない。

4. 着任日の1日の記載の違い

本人の回想(たちばな創刊号)では「二十一年十月一日」、『国高五十年史』の資料編(職員一覧)では「昭和21年9月30日」と、着任日に1日のずれがある[3][6]。同書の職員一覧の該当欄で、昭和21年9月30日の記載を確認している。着任辞令の日付と実際の勤務開始日の違いと推測される。

関連項目

● 来巣会(吉田が創設・主宰した美術グループ)

● 国高OB美術展(吉田を中心に発足した国高OB美術展の歴史)

● 東京都立国立高等学校(吉田が34年間美術科教諭を務めた学校)

● 依田 純(教え子であり、来巣会会員、追悼文の執筆者)

参考資料

  1. 国高同窓会会報「たちばな」第42号、2001年9月5日発行、依田 純「吉田 公先生を偲ぶ」
  2. 国高同窓会会報「たちばな」創刊1号、昭和56年9月15日発行、吉田 公「国高と共に三分の一世紀」
  3. 『国高五十年史』、1991年3月31日発行(東京都立中央図書館)。資料編の職員一覧を参照
  4. 『多摩の作家250人:たましんギャラリーの10年を彩った芸術家』たましんギャラリー、1984年(国立国会図書館デジタルコレクション)
  5. 国高同窓会会報「たちばな」第42号(同上)、および『来巣20th』(来巣会二十周年記念誌)1992年5月20日発行、吉田 公「二十周年記念に祝杯を!」
  6. 国高同窓会会報「たちばな」創刊1号(同上)
  7. 国高同窓会会報「たちばな」第8号、昭和59年6月15日発行、宮本和郎×吉田 公対談
  8. 「国立高校OB美術展の足跡」(掲示パネル・年表)、第30回国立高校OB美術展、2026年
  9. 東京美術学校・東京藝術大学美術部卒業者名簿(昭和17年9月本科卒業分)、東京藝術大学
  10. 「國高芸術2016 第20回記念国立高校OB美術展」吉田先生紹介文、2016年
  11. 『美術年鑑』1989~1992年版・1996年版・1997年版、美術年鑑社(八王子市立図書館所蔵)来巣会の頁 ※1993~1995年版および1998年版以降は来巣会の掲載なし
  12. ご親族への聞き取り情報、2026年7月(未公表、ネルペディア内部資料として保管)
  13. 「依田 純 参加展覧会 年表」(依田家所蔵資料、未公表・ネルペディア内部資料として保管)
  14. 東京文化財研究所編『昭和期美術展覧会出品目録 戦前篇』、中央公論美術出版、2006年
  15. 国立高校OB美術展第20回記念展(2016年5月25~29日、三鷹市芸術文化センター)遺作コーナー展示作品ポストカード(ご親族制作・配布、未公表・ネルペディア内部資料として保管)
  16. ご親族による記録(未公表・ネルペディア内部資料として保管)
  17. ご親族の情報提供、2026年9月16日(未公表・ネルペディア内部資料として保管)
  18. 東京藝術大学未来創造継承センター大学史史料室への照会(2026年9月)への回答、および同室公開『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇』第三巻、775~777頁・884~887頁(東京藝術大学のアーカイブ)
  19. 東京美術学校 編『東京美術学校一覧』昭和14至15年、東京美術学校、31・33・34頁(国立国会図書館デジタルコレクション)
  20. ご親族の書簡、2026年9月27日付(未公表・ネルペディア内部資料として保管)

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