東芝府中工場美術部(とうしばふちゅうこうじょうびじゅつぶ)
最終更新:2026年9月30日
「会社における組織と時間の制約に対し、アトリエには設計とか製造などいろいろな部門や社外の人々も集まるので、経験や考え方も多彩で、先生の手作りの四角い木製の腰掛けに座りながらの制作や雑談になると時間を忘れる程でした。」
東芝府中工場美術部会報「ら・せぞん」
1993年12月特集号
依田 純「久保田先生の画業60周年によせて」より
お断り
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東芝府中工場美術部は、東京芝浦電気(東芝)府中工場の社員による美術愛好サークル。設立の経緯・時期は不明で、東芝自体にも活動記録が残っていない[1]。府中市在住の洋画家・久保田九一を顧問・指導者として招き、部員たちは久保田のアトリエに通って制作したほか、春秋の写生旅行、夏季キャンプなどの活動を行った[1]。会報(機関誌)の題は「ら・せぞん」で、のちに記念展のタイトルとしても使われた(下記コラム参照)[1]。依田純は本部にて1960年より久保田に師事している[3]。
概要・活動内容
アトリエ通い
部員は会社帰りに久保田のアトリエ(府中市分倍河原)を「自分達の部室のような気持ち」で訪れ、画材道具を持ち込んで制作していたという。夏はそのままアトリエに泊まり込むこともあり、冬はストーブの薪を部員が工面して暖を取りながら夜遅くまで制作・語り合いをしていたとの回想がある[1]。
写生旅行
昭和40年代(1965〜1974年頃)、毎年のように信州安曇野を中心とした北アルプス山麓へ写生旅行を行った。美麻村、岩岳山、信濃森上、八方尾根などが行き先として挙げられている[1]。非公表の写真には、雪の山荘で久保田と部員が撮影した集合写真が残っており、本格的な登山とスケッチ活動を伴っていたことがうかがえる[1]。ほかに大町、青木湖、「大海」なども写生旅行の行き先として回想されている[1]。
夏季キャンプ
桧原、氷川、秋川などでキャンプが行われた(時期不明)[1]。
確認できる会員・関係者
「ら・せぞん」1993年特集号の寄稿者を中心に、現時点で名前が確認できる関係者。
| 氏名 | 入会・関わりの時期(分かる範囲) | 備考 |
|---|---|---|
| 是木 昭二 | 昭和26年(1951年)頃、デッサン会参加 | 東芝入社は昭和25年(1950年)。かつて東芝美術部部長[1] |
| 相馬 吉之助 | 不明 | キャンプの思い出を寄稿 |
| 相川 祐一 | 30年以上前(1993年基準) | 「ら・せぞん」の命名者(フランス文学好き)[2] |
| 石塚 俊三 | 1993年時点で20年(=1973年頃入会) | 画廊「画廊アートプラザ」に関わる |
| 宮本 ヒサエ | 19歳の時 | 夫は平成3年(1991年)12月に57歳で死去 |
| 小笠原 靖夫 | 不明 | 写生旅行の写真(昭和43年・46年)を提供 |
| 岩田 比佐江 | 20歳頃 | 府中市役所勤務時代に通い始める |
| 畑 征子(旧姓 大谷) | 20代半ば〜 | 一時中断ののち再開 |
| 竹田 征二 | 不明 | 1983年頃、国立にアトリエ兼用住居を新築 |
| 久保田 豊子 | - | 久保田九一の妻 |
| 依田 純 | 1960年(昭和35年)〜 | のち来巣会会員。国立高校で吉田公にも師事[3] |
| 井西 貞子 | - | 1993年展の企画・画廊業20年 |
| 山崎 明 | - | 世話人代表。1993年に定年、画業生活へ |
(このほか黒沢氏、長沢氏(キャンプ炊事長)、水村氏、佐波正一氏(技師長・東芝側)らの名も回想中に登場するが、美術部員かどうか含め詳細不明。)
依田純による回想「久保田先生の画業60周年によせて」(全文)
以下は、1993年12月発行の本会報「ら・せぞん」特集号(久保田先生画業60周年個展記念号)に、依田純(東芝府中工場美術部にて1960年より久保田九一に師事。ネルペディア運営者の父)が寄せた文章の全文である。文章・挿絵(スケッチ画「jun 白馬にて」)ともに依田純自身の手によるものであり、著作権はネルペディア運営者(依田純の遺族)が継承しているため、全文をここに掲載する[1][2]。当時のアトリエ通いの様子、キャンプ・写生旅行の思い出、そして「ら・せぞん」命名の経緯が、部員本人の言葉で記されている一次資料である。
挿絵:スケッチ画「jun 白馬にて」(依田純 画)
私がまだ独身の頃だから、もう30年以上も前になりますが、当時、東芝府中工場で退社後に向かう先は久保田先生のアトリエに行くことが多いものでした。それは美術部の講師が久保田先生だったので、部員は皆んな先生のアトリエを自分達の部室のような気持ちで画材道具を持ち込み、勝手気ままに使わさせて頂いていたのです。
しかし、先生はいつも私達を鷹揚に迎えてくださって、アトリエを解放され、美術だけでなく私的な問題にも真剣に相談にのって頂けるので、アトリエ通いのメンバーは多分に先生に感化された面も多いことと思います。夏の日などは、そのままアトリエに泊まり込んだり、冬の日はストーブの薪を、今は亡き宮本さんが梱包の廃材を工面してきて、暖をとりながら夜遅くまで制作したり、語り合いました。従ってアトリエでは皆んな時間をあまり気にしていなかったような気がします。会社における組織と時間の制約に対し、アトリエには設計とか製造などいろいろな部門や社外の人々も集まるので、経験や考え方も多彩で、先生の手作りの四角い木製の腰掛けに座りながらの制作や雑談になると時間を忘れる程でした。その雑談のなかから美術部の機関誌を発行しようということになり、本特集号の「ら・せぞん」の命名は当時フランス文学に熱中していた相川さんの発案によるものです。また、アトリエを離れて北アルプスの登山や安曇野などでのスケッチ会では、先生は夜明けを待ち切れず厳しい寒さにもめげず、風景に感動的に取り組まれておりました。その姿はいまも目にうかびます。
先生の画業60年の間には沢山の人々との離合集散も多かったことと思います。当時のメンバーの多くは離散の状態で、この機に井西さん、畑(大谷)さん、山崎さん達が中心となってできる限りの関係者を調べ、記念展のご協力をお願いしたのですが、まだ充分に把握できていない方も多いことと思います。かくいう私も3年ほど前に東芝本社を退職し、現在、府中の関係会社に勤務している離散の一人です。
しかし先生の画業60周年という節目に多数の関係者のご協力が得られ、永いこと離散の状態から先生を中心に、ある糸で結びついていたことが確認できたことは感慨のいたりです。いまや"人生7掛けの時代"といわれ、これにあてはめると先生は50代の壮年期です。先生の選択は生涯現役のお仕事であり、今後さらなる画業の蓄積とご発展を祈るしだいです。
記念展・関連イベント
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1968年(昭和43年)6月21日〜7月3日 | 久保田九一が第21回創造展に「群」を出品し会員賞受賞。同展では久保田に師事する依田純も新人賞(クサカベ賞)を受賞している[4]。 |
| 1993年(平成5年)12月13〜18日 | 「久保田九一 画業60周年記念展」画廊アート・プラザ(東京都中央区日本橋)にて開催。元部員らが再結集し記念小冊子「ら・せぞん」特集号を発行[1]。 |
| 2005年(平成17年)12月5〜10日 | 「ら・せぞん展」同画廊にて開催。久保田の没後10年を偲ぶ展[1]。 |
「ら・せぞん」の名前について
本会の機関誌・記念展タイトルとして使われた「ら・せぞん」の名は、久保田九一のアトリエでの雑談の中から美術部の機関誌を発行しようという話になり、当時フランス文学に熱中していた相川祐一が発案したものだという(フランス語で「季節」を意味する“la saison”に由来するとみられる)。この経緯は、依田純が1993年の「久保田先生の画業60周年によせて」で証言している[2]。
今も分かっていないこと
1. 設立の経緯・時期
美術部がいつ、どのような経緯で発足したのか、東芝側の記録は一切残っておらず、「部の存在を証明できるものが何もない」状態。非公表の集合写真等、個人保有の資料のみが根拠となっている[1]。
2. 部としての正式な活動期間
確認できる最古の言及は昭和26年(1951年)頃(是木昭二の回想)だが、これが部の発足時期を意味するかは不明。1993年の依田純の寄稿では「当時のメンバーの多くは離散の状態」と記されており、部がいつ頃実質的に機能しなくなったのかも判然としない[2]。
3. 久保田九一との関係の始まり
久保田がどのような経緯で美術部の顧問・指導者となったかは、久保田九一ページと同様、未解明。
参考資料
東芝府中工場美術部会報「ら・せぞん」1993年12月特集号(久保田先生画業60周年個展記念号)
依田純寄稿「久保田先生の画業60周年によせて」(『ら・せぞん』1993年12月号所収)
依田純 経歴資料(ネルペディア内部資料)
『美術年鑑』1969年版、美術年鑑社(国立国会図書館デジタルコレクション)/東京文化財研究所所蔵 第21回創造展図録(1968年)/創造美術会発行 新人賞(クサカベ賞)賞状(依田純宛、昭和43年6月30日付、依田家所蔵)
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