来巣会(らいそうかい)
最終更新:2026年10月24日
RAISO-KAI
来巣会(らいそうかい)
会員がそれぞれ自由な創作活動をする場として昭和四十八年に結成。
〝巣〟は ひそかに個性をはぐくみ育てる巣であり、社会的活動の拠点であり、
また飛翔するものたちが誰でも羽を休めることのできる開かれた巣でもありたい。
来たれ巣へ。
掲載資料について
このページは、公刊資料のほか、ご縁者様よりご提供いただいた資料や聞き取り情報を含む個人アーカイブです。貴重な資料や情報のご提供に感謝し、それぞれの情報の性質と出典を明記したうえで、確認できた範囲を掲載しています。未確認の事項については、現時点での調査状況を記しています。なお、掲載資料には、ウィキペディア日本語版の出典基準を満たさないものも含まれるため、同版への転載・投稿を目的とするものではありません。
来巣会(らいそうかい、片仮名表記「ライソウカイ」)は、1973年(昭和48年)に発足した美術グループ。1987年発行の15周年記念パンフレットに、清水龍雄、竹松泉、露木康雄、松井宏、竹中利夫、吉田公の6名で結成したと記されている。しかし第4回展までに、清水・竹松・露木の3名が名簿から確認できなくなり、その後は吉田と松井が中心となって会の活動を支える[1][29]。松井は東京美術学校工芸科鋳金部、吉田は同科図案部の出身で、ともに昭和13年度入学(予科)・昭和17年9月卒業(戦時の繰り上げ卒業)[30]。卒業後は二人とも洋画家として長年活動しているが、在学中の専攻は工芸科(図案・鋳金)で一貫しており、卒業制作も工芸系の題材だった[30]。この転向がいつ・どのような経緯によるものかは分かっていない(詳細は「今後の調査課題」参照)。事務所は神奈川県相模原市の会員・松井宏宅に置かれていた(松井の逝去後の『美術年鑑』1996・1997年版では、世田谷区の会員・垣本浩輔方と記載)[35]。銀座など東京都心で展覧会を行っていたが、1993年(平成5年)の松井の逝去、その前後からの吉田の健康上の事情などが重なり、1997年(平成9年)第25回展の開催年に、25周年を期して幕を閉じた[1][20]。
概要
来巣会は、東京都国分寺市在住の洋画家・吉田公が、芸術大学時代の友人と共に1973年に発足させた美術グループ[1]。1987年に15周年を記念して配布したパンフレット「来巣会15年の歩み」[27]には、「設立:昭和48年(1973年)7月」「清水龍雄、竹松泉、露木康雄、松井宏、竹中利夫、吉田公 6名で結成」とあり、会の名称について「来巣(らいそう)とは明日の画家を目指すための巣づくりの意味である。(命名:元あいびす画廊主 菜木敏明、松井宏)」と記されている。吉田は東京美術学校(現・東京芸術大学)卒業後、独立美術協会、モダンアート協会に所属したのち来巣会を主宰した、との記録がある[17]。
会員は無所属(公募系の大型美術団体に属さない)の画家・彫刻家・版画家らを中心に構成され、現時点で確認できている範囲では、1974年版から1992年版まで毎年刊行された『美術年鑑』(美術年鑑社)にグループ名と会員一覧が掲載されている[2]–[16][35]。1993~1995年版には来巣会の掲載がなく、1996・1997年版で再び掲載され、1998年版以降は掲載がない[35]。なお美術年鑑は毎年1月頃の発行であり、掲載内容は前年の活動状況を反映しているとみられる(下記「主な会員」参照)。事務所所在地は、1992年版までは神奈川県相模原市の会員・松井宏方、松井の逝去後の1996・1997年版では東京都世田谷区の会員・垣本浩輔方と記載されている。
沿革
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1973年(昭和48年) | 第1回展、会場「あいびす画廊」。「来巣会15年の歩み」[27]に「清水龍雄、竹松泉、露木康雄、松井宏、竹中利夫、吉田公 6名で結成」とある。美術年鑑にも同6名で掲載[2]。 |
| 1974年(昭和49年) | 第2回展、会場「昭和画廊」。豊島シズ枝が新たに確認できる(7名)。[3] |
| 1975年(昭和50年) | 第3回展(8月11~17日)、会場「銀座アート・ギャラリー」(銀座8-9-16 長崎センタービル2階)。エッチング作家・吉岡正治が初参加。奥津国道・松尾武夫・伊沢正夫も新たに確認できる一方、清水龍雄が名簿から消える(10名)。[4][25] |
| 1976年(昭和51年) | 第4回展より会場を「日産アートサロン」に変更(5月18~23日)。依田純・雨宮一正が加入。竹松泉・露木康雄・豊島シズ枝は名簿から消える(9名)。秋季展・第4回(11月28日~12月4日、第一画廊)を開催。秋季展は本展とは独自の回数体系を持つ。[5][25] |
| 1977年(昭和52年) | 第5回展(5月31日~6月5日、日産アートサロン)。小牧あい(初出品)・秋本兼治が新たに確認できる(11名)。秋季展(11月22~27日、柿傳ギャラリー・新宿)に村田英雄が初出品。[6][25] |
| 1978年(昭和53年) | 第6回展(6月1~6日)。斎藤茂・中川曠人・村田英雄が新たに確認できる(12名)。吉岡正治の表記が「吉岡昌治」に変化。秋季展(11月19~24日、柿傳ギャラリー)も同様の顔ぶれ。[7][25] |
| 1979年(昭和54年) | 第7回展(5月31日~6月5日)。吉浦たか子が新たに確認できる(13名)。秋季展(9月30日~10月6日、東京近代美術クラブ)に花村京が初出品。[8][25] |
| 1980年(昭和55年) | 第8回展(5月29日~6月3日)。宍戸忠男が新たに確認できる(15名)。11月、村田英雄が逝去。12月、秋季展(東京近代美術クラブ、12月7~13日)と来巣八王子展(ギャラリー・フロイデン、12月18~23日)を開催、村田英雄の遺作を展示。[9][25] |
| 1981年(昭和56年) | 第9回展(5月28日~6月2日)。会員構成に大きな変化なし(14名)。奥津国道デザインの鳥のロゴ(RAISO-KAI)が初めて案内状に登場。秋季展(東京近代美術クラブ、11月22~28日)に池崇一・早川清が初出品。[10][25] |
| 1982年(昭和57年) | 第10回展(5月27日~6月1日)=10周年記念展。賛助出品:遠藤実・加山雄三・三沢あけみ。池崇一・早川清が本展にも初登場(16名)。秋季展(東京近代美術クラブ、10月31日~11月6日)は本展と同一16名。[11][25] |
| 1983年(昭和58年) | 第11回展(5月26~31日)。宮山美智子が新たに確認できる(16名)。池崇一・伊沢正夫は「今回は休みます」。秋季展(下村画廊、11月28日~12月3日)が、現時点で確認できる秋季展の最後の開催。[12][25] |
| 1984年(昭和59年) | 第12回展(5月24~29日)。竹下あや・鳥越哲夫が新たに確認できる。秋季展の開催は未確認(この年以降、本展のみ年1回開催に移行したとみられる)。[13][25] |
| 1985年(昭和60年) | 第13回展(5月23~28日)。来巣会メンバーによる「五人展」が始まったとみられる(1993年が第9回であることからの逆算)。[14][25] |
| 1986年(昭和61年) | 第14回展(5月22~27日)。横林よしみが新たに確認できる一方、吉岡正治(昌治)が名簿から消える。[15][25] |
| 1987年(昭和62年) | 第15回展(5月21~26日)=15周年記念展。「来巣会15年の歩み」パンフレットを配布。津金永(国高美術科教諭、吉田の後任)が加入。この回が日産アートサロンでの最後の開催。[16][25] |
| 1988年(昭和63年) | 第16回展より会場を「田中八重洲画廊」に変更(6月14~20日)。阿部みどり・川端みち子・小島和雄が新たに確認できる。[25] |
| 1989年(平成元年) | 第17回展(5月23~29日)。宍戸忠男「今回は休みます」。[25] |
| 1990年(平成2年) | 第18回展(5月22~28日)。垣本浩輔が「初参加」として新たに確認できる。竹中利夫がこの回を境に名簿から消える(逝去は2001年のため、逝去以外の事情による離脱と推定)。[25] |
| 1991年(平成3年) | 第19回展(5月21~27日)。会員構成にはほぼ変化なし。ただし『美術年鑑』1992年版(1991年活動分)では中川曠人が名簿から消える(14名)。[25][35] |
| 1992年(平成4年) | 第20回展(5月19~25日)=20周年記念展。記念誌『来巣20th』を発行。出品13名:阿部みどり、伊沢正夫、垣本浩輔、川端みち子、小島和雄、宍戸忠男、津金永、鳥越哲夫、花村京、松井宏、依田純、吉浦たか子、吉田公。[21][22] |
| 1993年(平成5年) | 1月、松井宏が逝去(創立以来20年間、本会をリード)。第21回展(5月18~24日)で遺作展示、今井泰賢・今村恒・西崎貢・小島保雄が新規加入(15名)。第9回五人展(2月9~14日、Art Space 88・国立)を開催。11月7~13日、東京近代美術クラブ新館で「明日の会展」が開かれ、案内状に阿部みどり・西崎貢・松井宏・依田純・若松善雄の氏名がある(松井の遺作も展示)。[20][25] |
| 1994年(平成6年) | 第22回展(5月17~23日)。第10回五人展(2月8~13日)は中川曠人に代わり川端みち子が参加。若松善雄が逝去(月日不明)。「明日の会展」(11月27日~12月3日)で松井宏・若松善雄の遺作を展示。案内状に田辺豊野の氏名が新たに載る。[20][25] |
| 1995年(平成7年) | 第23回展より会場を「鹿友アートサロン」に変更(5月17~22日)。「五人展」を「幹の会」に改称。読売新聞1995年2月2日付「いべんとガイド」欄に幹の会「5人展」として紹介される。小島保雄がこの回以降不在。ただし『美術年鑑』1996年版(1995年活動分)には小島保雄の略歴が掲載されており、年鑑上は1995年時点でも会員として扱われていた可能性がある。同版では吉田公・依田純・川端みち子の略歴に「幹の会」の記載が現れ、事務所は世田谷区の垣本浩輔方となる(14名)[35]。[18][20] |
| 1996年(平成8年) | 2月、鳥越哲夫が逝去。第24回展(5月22~27日)で遺作展示。『美術年鑑』1997年版(1996年活動分)では掲載が13名となり、鳥越哲夫・小島保雄が名簿から消え、小林節夫が加わる[35]。[20] |
| 1997年(平成9年) | 第25回展(最終回、5月21~26日)に池崇一・奥津国道・小牧あい・斎藤茂・竹下あや・中川曠人・花村京ら旧会員7名が協賛出品。正会員13名。第25回展の開催年に、25周年を期して幕を閉じた。[1][20][24] |
| 2001年(平成13年) | 4月29日、創設メンバーの一人・吉田公が逝去。11月23日、竹中利夫が逝去(享年84)。伊沢正夫も逝去。[1][19][20][25] |
| 2002年(平成14年) | 9月、斎藤茂が逝去。[20] |
| 2006年(平成18年) | 1月26日、依田純が逝去。 |
| 2016年(平成28年) | 奥津国道が逝去。[20] |
※上表の「新たに確認できる/名簿から消える」は美術年鑑掲載データに基づく。美術年鑑は前年の活動を反映して翌年1月頃に発行されるため、掲載年は実際の活動年に読み替えて配置している(例:「美術年鑑1978年版」の内容は本表では「1977年」の行に反映)。
※『美術年鑑』には、1993~1995年版(1992~1994年活動分)に来巣会の頁がなく、1996年版(1995年活動分)・1997年版(1996年活動分)で再び確認できる。1998年版以降も掲載がない[35]。
※第1回展・第2回展(1973・1974年)の案内状は、2026年9月、ご親族からの情報提供により現存しないことが確認された。来巣会案内状データベース[25]が1975年(第3回)以降を主要典拠としているのはこのためでもある[29]。
展覧会会場の変遷
『美術年鑑』には記載されないが、依田家所蔵の案内状・記録から判明した会場の変遷は次のとおり。[25]
| 期間 | 会場 |
|---|---|
| 1973年(第1回) | あいびす画廊 (中央区京橋2-9 東熱ビル) |
| 1974年(第2回) | 昭和画廊 (中央区銀座1-13-1京立ビル) |
| 1975年(第3回) | 銀座アート・ギャラリー(銀座8-9-16 長崎センタービル2階) |
| 1976~1987年(第4~15回) | 日産アートサロン(銀座4丁目交叉点・日産自動車ショールーム4階) |
| 1988~1994年(第16~22回) | 田中八重洲画廊(中央区八重洲1-5-15) |
| 1995~1997年(第23~25回) | 鹿友アートサロン (中央区京橋2-7-6鹿沼ビル) |
主な会員
来巣会案内状データベース[25]と、『美術年鑑』(美術年鑑社)の1974~1992年版・1996・1997年版[2]–[16][35]を突き合わせた一覧。「活動年」は原則として両資料の合算値であり、個々のセルへの脚注付与は省略している。依田純参加以前の1973・1974年は美術年鑑のみが典拠、1975年以降は案内状データベースを主要典拠とする。本表には、来巣会とは別の展覧会「明日の会」の案内状にのみ氏名がある若松善雄・田辺豊野の2名も掲載しているが、来巣会の会員数には含めない(この2名を除く37名を「確認できる会員」として数える)。
| 氏名 | 生年 | 出身・居住地 | 学歴・師事等 | 活動年 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|
| 松井 宏(まつい ひろし) | 大正10年(1921)生 | 東京都出身、神奈川県相模原市在住 | 東京美術学校鋳金部卒(昭和17年9月)、日本アンデパンダン展出品[29] | 1973~1992(1993年本展・1994年明日の会展は遺作展示) | 来巣会事務所所在地(自宅)。吉田公との共同創設者と判明(2026年9月、ご親族からの情報提供による)[29]。個展7回→11回→13回(1991・1992年版)。1983年以降は啓蟄・松美・松宏社各展委員(1991年版以降は「松美」に代わり「森の会」の記載)。1993年1月逝去。 |
| 吉田 公(よしだ ただし) | 大正9年(1920)生 ※大正8年(1919)生とする資料も[17] | 東京都国分寺市在住 | 東京美術学校卒、師 児島善三郎、独立美術協会・モダンアート協会を経て主宰 | 1973~1997 | 松井宏と共同創設・主宰(2026年9月、ご親族からの情報提供で確認)[29]。個展8回→11回→12回(1996年版)、渡欧3回。1996・1997年版の略歴に「幹の会」の記載[35]。国立高等学校教諭(教科欄は「図」、昭和21年~55年。のち昭和59年まで非常勤講師)[19]。2001年4月29日逝去。 |
| 竹中利夫 | 大正7年(1918)生 | 大阪府出身、千葉県流山市→千葉市在住 | (学歴記載なし)、香料研究家 | 1973~1989 | グループ展(啓蟄会)2回→15回出品、渡欧2回・渡米1回。逝去は2001年11月23日(喪中はがきにより確認)。 |
| 竹松 泉 | 大正12年(1923)生 | 神奈川県出身、神奈川県小田原市在住 | 昭和16年川端画学校卒、師 水野以文 | 1973~1975 | 近代美術協会会員。白日会・日本水彩画会・行動美術展等入選。昭和45年以後毎年個展。 |
| 露木康雄 | 昭和8年(1933)生 | 東京都出身、神奈川県足柄上郡在住 | 独学 | 1973~1975 | 元美術文化協会会員、西相美術協会会員。ACC展・米国サンディエゴ展等出品。 |
| 清水龍雄 | 昭和8年(1933)生 | 神奈川県出身、神奈川県相模原市在住 | 武蔵野美大卒 | 1973~1974 | 自由美術・春陽会・モダンアート展等出品。「漠の会」結成。 |
| 豊島シズ枝 | 大正12年(1923)生 | 神奈川県出身、神奈川県小田原市在住 | (学歴記載なし) | 1974~1975 | 国画会会友、女流美術家協会会員、西相美術協会会員。 |
| 吉岡正治(昌治) | 昭和5年(1930)生 | 東京都板橋区→北区在住(1996年版より北区) | 国立高校昭和23年卒(ご親族の情報。回数の表記に食い違いあり、「今後の調査課題」参照)[32] | 1975~1985、1993~1997 | 銅版画、個展4回→6回→20回→22回(1996・1997年版。回数は年鑑記載のまま)。1996・1997年版では師 吉田公と記載。表記の変遷あり(「今後の調査課題」参照)。案内状DBでも1993年以降「吉岡正治」表記での復帰が確認できる。 |
| 奥津国道 | 昭和7年(1932)生 | 神奈川県出身、神奈川県相模原市在住 | 師 宮永岳彦 | 1975~1983、1997年に協賛出品 | 個展5回→7回、渡欧2回。斎藤茂の入会の仲介役(斎藤自身が奥津に頼み込み入会した、との証言)[21]。 |
| 松尾武夫 | 大正14年(1925)生 | 東京都三鷹市在住 | 東京理科大卒 | 1975~1982 | 個展3回→12回。国立高校数学科教諭(昭和36年~55年)[19]。 |
| 伊沢正夫 | 昭和5年(1930)生 | 東京都杉並区在住 | 東京芸大卒 | 1975~1997 | 個展5回→7回→10回(1996・1997年版)。1987年版より都民美術運営会会員の記載があるが、1992年版で消える。 |
| 依田 純 | 昭和11年(1936)生(1996年版より記載) | 東京都八王子市在住 | 師 久保田九一(~1992年版)→吉田公(1996・1997年版) | 1976~1997(家族記録では1998年まで在籍) | 自由美術・創造美術出品(1996年版では「創造美術、幹の会出品」に変わり、「自由美術」の記載が消える)。個展4回→6回→7回(1996年版)。国立高校昭和30年卒。明日の会展(1993・1994年)の案内状にも氏名の記載あり(出品の詳細は未確認)。 |
| 雨宮一正 | (生年記載なし) | (詳細不明) | 国立高校昭和27年卒(高校第4回)。東京藝大彫刻科卒とみられる(ご親族の書簡では「卒業したはず」との伝聞)[32]。案内状コメントからも彫刻系と推定 | 1976~1977 | 第4回展(1976年)に新規登場。既存の会員一覧に未掲載だった人物。 |
| 小牧あい | 昭和10年(1935)生 | 東京都三鷹市→千葉県市川市在住 | お茶の水女子大卒、師 松岡正 | 1977~1987、1997年に協賛出品 | 1978年版に「来巣会初出品」と明記(状では1977年に「小牧愛」表記で初出品)。1987年版では「写実画壇会員」の記載。 |
| 秋本兼治 | 昭和7年(1932)生 | 東京都武蔵野市在住 | 東京芸大卒 | 1977のみ | 銅版画。 |
| 村田英雄 | 昭和5年(1930)生 | 東京都八王子市在住 | 東京芸大彫刻科卒 | 1977(秋季展)~1980 | 1980年版より師 石井鶴三と明記。1980年11月逝去、遺作展示。国立高校昭和23年卒(第1回国高OB美術展の出品者欄に「故人」として記載)[34]。 |
| 斎藤 茂 | 大正11年(1922)生 ※大正12年(1923)生とする資料も | 東京都小金井市在住 | 早大卒、師 御正伸 | 1978~1983、1997年に協賛出品 | 1981年から一陽展出品。雑誌『平凡』編集長時代、同編集部の奥津国道に頼み込み入会(自らの希望による入会、との証言)[21]。 |
| 中川曠人 | (生年記載なし) | 東京都小平市在住 | 国学院大卒 | 1978~1990(1993年・1997年にも出品記録あり) | 日彫展会友→日本彫刻会会員。日展連続入選→日展入選5回。国立高校教諭(国語、昭和38年~56年。のち昭和57年まで非常勤講師)[19]。 |
| 吉浦タカ子 | 昭和9年(1934)生 | 岡山県倉敷市→東京都武蔵野市→千葉県袖ケ浦市在住(1996年版より袖ケ浦市) | 九州大卒 | 1979~1997 | 女流展出品。個展3回、師 桜井浜江・丸山司珖(1996・1997年版)。1996・1997年版は「吉浦たか子」表記。 |
| 花村 京 | (生年記載なし) | 東京都小金井市在住 | 東京芸大日本画科卒、師 山本丘人(1987年版より) | 1979(秋季展)~1994、1997年に協賛出品 | 新制作日本画部出品、グループ展8回→20回→24回(1992年版)、個展2回→3回。 |
| 宍戸忠男 | 昭和26年(1951)生 | 東京都日野市在住 | 国学院大卒 | 1980~1997 | 日本画。創画会出品入選。個展1回(1996・1997年版)。 |
| 池 崇一 | 昭和2年(1927)生 | 福岡県出身、東京都国立市在住 | 早大卒 | 1981(秋季展)~1983、1997年に協賛出品 | 木彫、三戯展出品。ご本人の回想(「一九八一、八二年ごろ」)とも近い年代。 |
| 早川 清 | 大正11年(1922)生 | 東京都出身、千葉県市川市在住 | 青山学院卒、師 松井宏 | 1981(秋季展)~1983 | 啓蟄会5回出品。 |
| 宮山美智子 | 昭和5年(1930)生 | 東京都狛江市在住 | (学歴記載なし) | 1983~1987 | 朱葉会出品。竹下あやを来巣展に誘った人物とみられる(竹下あや自身の回想による)[21]。 |
| 竹下あや | 昭和3年(1928)生(1988年版より記載) | 東京都大田区在住 | (学歴記載なし) | 1984~1991、1997年に協賛出品 | 光風会出品。1987年版では「群炎美術協会会員」の記載。 |
| 鳥越哲夫 | 昭和8年(1933)生(1996年版より記載) | 千葉県柏市在住 | 国立高校卒(1996年版) | 1984~1996(1996年は逝去による遺作展示) | 日曜画家展出品。 |
| 横林よしみ | (生年記載なし) | 東京都狛江市在住 | (学歴記載なし) | 1986~1987 | 朱葉会7回出品。 |
| 津金 永 | 昭和28年(1953)生(1996年版より記載) | 東京都三鷹市→青梅市在住(1992年版より青梅市) | 東京芸大油絵科卒 | 1987~1992、1994~1997(1993年は欠) | 個展10回(1996年版)→12回(1997年版)。国立高校美術科教諭(昭和59年~、吉田の後任)[19]。国高勤務がきっかけで来巣会に出品するようになった経緯を『来巣20th』の寄稿文「来巣会のこと」で述懐[22]。 |
| 阿部みどり | 昭和15年(1940)生(1996年版より記載) | 東京都三鷹市→千代田区→府中市在住 | 藤女子大卒、クリーブランド美術大留学 | 1988~1997 | 無所属(1997年版では「幹の会」と記載)。1993年と1994年の明日の会展の案内状にも氏名の記載あり。 |
| 川端みち子 | 昭和18年(1943)生 | 東京都昭島市在住 | 群馬大卒 | 1988~1997 | 朱葉会出品(1992年版で「朱葉会会友」)。個展1回→3回(1992年版)→4回(1996年版)。師 狩野守(1996年版)。1994年五人展にも参加。1996・1997年版の略歴に「幹の会」の記載。 |
| 小島和雄 | 昭和13年(1938)生 | 東京都八王子市在住 | 東京教育大卒 | 1988~1992、1994~1997(1993年は欠) | 東京都八王子市在住(依田純・小林節夫と同市内)。国立高校OB美術展にも出品歴あり[23]。『美術年鑑』1996・1997年版の略歴に師 吉田公と記載。 |
| 垣本浩輔 | 昭和9年(1934)生(1991年版より記載) | 東京都世田谷区在住 | 横浜市立大卒、国立高校昭和27年卒(高校第4回)[32]。師 吉田公(1996・1997年版) | 1990~1997 | 第18回展(1990年)に「初参加」として登場。国高美術部OBとしても知られ、『来巣20th』にエッセイを寄稿。『美術年鑑』1996・1997年版では来巣会の事務所が垣本方(世田谷区)と記載され、1996年版の略歴には小諸フェスティバル(小山敬三奨励賞)の記載がある[35]。 |
| 今井泰賢 | (詳細不明) | (詳細不明) | (詳細不明) | 1993のみ | 第21回展(1993年)に新規登場、以降未確認。 |
| 今村恒 | (詳細不明) | (詳細不明) | (詳細不明) | 1993のみ | 第21回展(1993年)に新規登場、以降未確認。 |
| 西崎貢 | 昭和5年(1930)生(1996年版より記載) | 千葉県松戸市在住 | 中央大卒、師 松井宏(1996・1997年版) | 1993~1997 | 第21回展(1993年)に新規登場。明日の会展(1993・1994年)の案内状にも氏名の記載あり。『美術年鑑』1996・1997年版の略歴にも「明日の会展」の記載がある[35]。 |
| 小島保雄 | 昭和15年(1940)生(1996年版より記載) | 東京都八王子市在住 | 中央大卒 | 1993~1994 | 第21・22回展のみ確認。『美術年鑑』1996年版(1995年活動分)には掲載があり、仏グランショミエル美術研究所に留学した旨の略歴が載る(1997年版には掲載なし)[35]。 |
| 若松善雄 | (詳細不明) | (詳細不明) | (詳細不明) | 1993(明日の会)~1994 | 明日の会展(1993年)の案内状に氏名の記載あり。1994年逝去、遺作展示。 |
| 田辺豊野 | (詳細不明) | (詳細不明) | (詳細不明) | 1994(明日の会) | 明日の会展1994の案内状に氏名の記載あり(新規登場)。 |
| 小林節夫 | 昭和4年(1929)生(1997年版より記載) | 東京都八王子市在住 | 東京教育大卒、国立高校昭和22年卒(中学第3回)[32] | 1996~1997 | 第24回展(1996年)に新規登場。『美術年鑑』1997年版の略歴に「如月会」「元季風会同人」の記載[35]。国立高校OB美術展にも出品歴あり[23]。 |
国立高校(国高)との関係
来巣会の確認できる会員37名(「明日の会」の案内状にのみ氏名がある2名を除く)のうち、少なくとも13名が東京都立国立高等学校(国高)の卒業生・関係者である。このうち11名は、同校OB会主催の「国立高校OB美術展」(1995年発足)にも出品している[23](雨宮一正・松尾武夫の2名は、出品の有無が未確認)。
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吉田 公(国高美術科教諭、昭和21~55年。のち昭和59年まで非常勤講師)[19]
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松尾武夫(国高数学科教諭、昭和36~55年)[19]
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垣本浩輔(国高昭和27年卒)[32]
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伊沢正夫(国高昭和23年卒 阿佐谷 伊勢ずし主人)[26]
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鳥越哲夫(国高昭和27年卒)[26]
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雨宮一正(国高昭和27年卒)[32]
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依田 純(国高昭和30年卒 東芝本社勤務)[26]
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小島和雄(国高昭和32年卒 立川高校教諭)[26]
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津金 永(国高美術科教諭、昭和59年~。吉田の後任)
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村田英雄(国高昭和23年卒。故人)[34]
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小林節夫(国高昭和22年卒)[32]
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中川曠人(国高国語科教諭、昭和38~56年。のち昭和57年まで非常勤講師)[19]
このうち吉田公・津金永は美術科、中川曠人は国語科、松尾武夫は数学科でそれぞれ国高の教諭を務めており、来巣会と国立高校美術部・同OB会との間には、単なる個人的つながりを超えた人的な連続性が見られる。津金永は『来巣20th』寄稿文「来巣会のこと」で、自身が国高に赴任したことをきっかけに来巣会へ出品するようになった経緯を記しており[22]、国高の美術準備室を制作場所として利用していたことも述べている。
会員の逝去
ご親族による記録(未公表・ネルペディア内部資料)と、たちばな42号、竹中利夫の喪中はがき等の一次資料を突き合わせ、現時点で確認できている会員の逝去情報を一覧にする。
| 氏名 | 逝去 | 備考 |
|---|---|---|
| 村田英雄 | 1980年11月 | 秋季展・来巣八王子展(1980年12月)で遺作展示 |
| 松井 宏 | 1993年1月 | 第21回展・明日の会展(いずれも1993年)で遺作展示 |
| 若松善雄(明日の会) | 1994年(月日不明) | 明日の会展1994で遺作展示 |
| 鳥越哲夫 | 1996年2月 | 第24回展(1996年)で遺作展示 |
| 吉田 公 | 2001年4月29日 | たちばな42号・依田純による追悼文の日付を採用 |
| 伊沢正夫 | 2001年4月(日不明) | 喪中はがきにより確認 |
| 竹中利夫 | 2001年11月23日(享年84) | 喪中はがきにより確認 |
| 斎藤 茂 | 2002年9月(日不明) | 喪中はがきにより確認 |
| 依田 純 | 2006年1月26日 | 既存の経歴資料と一致 |
| 奥津国道 | 2016年(月日不明) | Wikipedia掲載情報 |
展覧会シリーズの整理
来巣会が主催・関与した展覧会には、番号付きの「来巣展」(本展)以外に複数のシリーズが存在することが、案内状の発掘により判明した。整理すると以下の通り。
| シリーズ名 | 確認できる期間 | 備考 |
|---|---|---|
| 来巣展(本展) | 1973年~1997年、毎年1回(春~初夏) | 第1回~第25回。1988年より会場を田中八重洲画廊、1995年より鹿友アートサロンに変更。 |
| 来巣秋季展 | 1973年頃~1983年 | 本展とは独自の回数体系を持つ(1976年時点で「秋季第4回」)。会場は第一画廊→柿傳ギャラリー→東京近代美術クラブ→下村画廊と変遷。1983年第8回以降、開催が途絶える。 |
| 来巣八王子展 | 1980年12月(1回のみ確認) | 近代美術クラブでの秋季展に出品した15名中、7名が八王子のギャラリー・フロイデン(花村京が講師を務めていた)にて開催。 |
| 五人展(後の幹の会) | 1985年頃~2004年 | 中川曠人・花村京・依田純・吉浦たか子・吉田公を中心とした少人数展。1995年に「幹の会」に改称。会場はArt Space 88(国立)。五人展、幹の会展ともに第10回をもって終了する。『美術年鑑』1996・1997年版には、吉田公・依田純・川端みち子(1997年版では阿部みどりも)の略歴に「幹の会」の記載がある[35]。 |
| 明日の会展 | 開始年不明(確認できる案内状は1993年・1994年) | 東京近代美術クラブ新館で開かれたグループ展。案内状に氏名が載るのは、1993年が阿部みどり・西崎貢・松井宏・依田純・若松善雄、1994年はこれに田辺豊野が加わった6名で、若松善雄・田辺豊野以外は来巣会会員でもある。1993年の案内状に「新会員を加え」とあり、それ以前から活動していた可能性がある。主催者・会の性格は案内状からは分からない。元会員への聞き取りでは「松井宏がやっていた会ではないか」との話があったが、伝聞にとどまり、当事者による確認は取れていない[33]。1993年は松井宏、1994年は松井宏・若松善雄の遺作を展示[25]。 |
寄稿:依田純「多くの出会いに恵まれて」
1992年の結成20周年を記念して発行された記念誌『来巣20th』(1992年5月20日発行)には、会員・依田純も寄稿している。20年間の来巣会活動を振り返り、著名タレントとの会場での交流や、安曇野でのスケッチ旅行を通じた地元農家との触れ合いなど、展覧会の記録には残らない人と人との「出会い」を綴った一篇である[28]。
多くの出会いに恵まれて 洋画 依田 純
(絵:八坂の塔〈スケッチ〉)毎年来巣展は予め決まっているのに、制作の方は毎回見切り発車の連続で、いつの間にか二十周年を迎えました。その間温かく見つめて下さった吉田、松井両先生を始め会員の方々には本当に感謝しております。改めて振り返ってみるといろいろな「出会い」がありました。まづは、会員も現在に至までには倍以上の方々が入れ替わっており、それぞれの作品を通じての出会いにはその度に刺激されました。
作曲家の遠藤実先生をはじめ多くの有名タレントの方々との会場での思いがけない出会いも印象深いものでした。また信州の安曇野の畑でスケッチをしていて、農家のご家族とすっかお馴染みになり、後日、遠路はるばる大根や葱や芋など沢山お土産を持って展覧会に来て下さった時は感動しました。そのほか泊まった民宿では腰の曲がったお婆さんがわざわざ手打ちそばを打ってご馳走して下さったり…等々、これまでの絵を通じての出会いには感慨深いものがあります。
今後もこれらの出会いを大切にしてゆきたいと思います。
今後の調査課題
1. 創設者について(一部解決)
「来巣会15年の歩み」[27]に「清水龍雄、竹松泉、露木康雄、松井宏、竹中利夫、吉田公 6名で結成」とあるが、清水龍雄、竹松泉、露木康雄の3名は第4回展までに名簿から確認できなくなり、結成に関わった経緯は不明である。以降、吉田が通信物の制作、松井が事務局を担当して会を運営する。2026年9月、吉田公のご親族からの情報提供により、松井は東京美術学校鋳金部、昭和17年9月卒業で、吉田と同期であったことが確認できた[29]。
2026年9月、東京藝術大学未来創造継承センター大学史史料室への照会により、この点について詳細が判明した。「図案部」「鋳金部」は卒業後の所属区分ではなく、いずれも東京美術学校「工芸科」内の専攻区分であり、吉田・松井とも昭和13年度入学の予科から卒業まで一貫してこの専攻に在籍していたとのことである[30]。卒業制作も、吉田が能装束・面のデザイン、松井が植物の芽の形態にもとづく鋳金作品で、いずれも工芸系の題材だった[30]。一方、在学中のカリキュラムには図案部・鋳金部とも「絵画実習」が週18時間以上組み込まれており、洋画の基礎を学ぶ機会自体はあったとみられる[31]。大学史史料室によれば、在学中に専攻を移った記録はなく、卒業後の洋画家への転向は在学中の課程によるものというより、卒業後の交友関係等の影響である可能性が高いとのことで、この点はなお分かっていない。
2. 1997年解散の経緯について
ご親族への聞き取りにより、解散の背景には次の事情があったとみられる。
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松井宏が第21回展の直前(1993年)に逝去。
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吉田公もこの頃から健康上の事情により活動が難しくなっていった。
これらについての具体的な詳細は記載しない方針。
3. 吉岡正治/吉岡昌治の表記について
表記の変遷について、二つの資料群で微妙に異なる時期が示されている。
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来巣会案内状データベース[25]では、1975~1977年は「吉岡正治」、1978~1985年は「吉岡昌治」、そして1993~1997年に再び「吉岡正治」の表記に戻ることが確認できた。
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一方、美術年鑑では1976年版~1983年版まで一貫して「吉岡正治」、1984年版~1986年版では「吉岡昌治」と印字されている[4]–[6][11]–[15]。1987年版~1992年版には掲載がなく、1996・1997年版では再び「吉岡正治」の表記に戻っている[35](案内状データベースで1993年以降「吉岡正治」に戻る点と符合する)。
両資料とも「正→昌」の変化があること自体は一致しているが、切り替わりの時期には数年のズレがあり、その経緯は分かっていない。
4. 小島和雄と小島保雄について
1993~1994年の案内状に東京都八王子市在住として並記されている「小島和雄」と「小島保雄」は、誤記ではなく別人である。小島和雄は第16回展(1988年)から1997年まで参加し、小林節夫(1996年加入、同じく八王子市在住)とともに国立高校OB美術展への出品歴があり、国高とのつながりが確認できる。一方、小島保雄は第21・22回展(1993・1994年)のみの参加で、どのような人脈・経緯で来巣展に加わったのかは分かっておらず、小島和雄と市内で親交があったかどうかも不明である。なお『美術年鑑』1996年版には両名が並んで掲載されており、小島和雄は「東京教育大卒・昭13」、小島保雄は「中央大卒・昭15」と、学歴・生年とも異なる記載になっていて、別人であることを裏づける[35]。
5. 秋季展の1984年以降の消長について
秋季展は1983年(下村画廊)まで確認できているが、1984年以降の開催記録が見つかっていない。本展のみの年1回開催に切り替えたという経緯については不明。
6. 「明日の会」について
1993年・1994年の「明日の会展」の案内状[25]に氏名が載る人々の中に来巣会の会員が含まれているが、この会がどのような性格の会なのか、いつから活動していたのか、誰が主催していたのかは分かっていない。1993年の案内状には「新会員を加え」とあり、それ以前から活動していた可能性がある。元会員1名からの聞き取りでは「松井宏がやっていた会ではないか」との話があったが、伝聞にとどまり、案内状に主催者の表示はなく、当事者への確認も取れていない[33]。なお、『美術年鑑』1996・1997年版の西崎貢の略歴には「明日の会展」「師松井宏」の記載があり、松井宏の門下が明日の会展に関わっていたことは確認できるが、会の主催者や性格を示すものではない[35]。また、依田純については氏名が載っているものの、会員だったのか出品者として加わったのかは分かっておらず、出品作品や会場の写真も確認できていない(詳細は「依田純」ページを参照)。
関連項目
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吉田公(来巣会創設に関わった中心人物の一人)
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東京都立国立高等学校(吉田公・中川曠人・松尾武夫が教諭を務めた学校。会員11名がOB美術展にも出品)
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国立高校OB美術展(1995年発足、吉田公を中心に始まった同校OB会の美術展)
参考資料
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国高同窓会会報「たちばな」第42号、2001年9月5日発行、依田純「吉田公先生を偲ぶ」
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美術年鑑1974年版、美術年鑑社(1973年活動分。大田区立大田図書館所蔵)
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美術年鑑1975年版、美術年鑑社(1974年活動分。同上)
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美術年鑑1976年版、美術年鑑社(1975年活動分。同上)
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美術年鑑1977年版、美術年鑑社(1976年活動分。同上)
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美術年鑑1978年版、美術年鑑社(1977年活動分。国立国会図書館デジタルコレクション)
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美術年鑑1979年版、美術年鑑社(1978年活動分。同上)
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美術年鑑1980年版、美術年鑑社(1979年活動分。同上)
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美術年鑑1981年版、美術年鑑社(1980年活動分。同上)
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美術年鑑1982年版、美術年鑑社(1981年活動分。同上)
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美術年鑑1983年版、美術年鑑社(1982年活動分。同上)
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美術年鑑1984年版、美術年鑑社(1983年活動分。八王子市立図書館所蔵)
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美術年鑑1985年版、美術年鑑社(1984年活動分。日野市立図書館所蔵)
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美術年鑑1986年版、美術年鑑社(1985年活動分。八王子市立図書館所蔵)
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美術年鑑1987年版、美術年鑑社(1986年活動分。日野市立図書館所蔵)
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美術年鑑1988年版 現存作家名鑑、美術年鑑社(1987年活動分。日野市立図書館所蔵)
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『多摩の作家250人:たましんギャラリーの10年を彩った芸術家』たましんギャラリー、1984年(国立国会図書館デジタルコレクション)
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読売新聞1995年2月2日付朝刊「いべんとガイド」欄
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『国高五十年史』、1991年3月31日発行(東京都立中央図書館)。資料編の年表(pp.267~269)・職員一覧を参照
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依田純の親族による聞き取り情報(未公表、ネルペディア内部資料として保管)
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『来巣20th』(来巣会二十周年記念誌)、1992年5月20日発行、斎藤茂「ありがとう!来巣会」
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『来巣20th』(来巣会二十周年記念誌)、1992年5月20日発行、津金永「来巣会のこと」
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「国立高校OB美術展」出品者名簿(各回パンフレット等、依田純の親族の調査による)
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依田家所蔵資料一式(来巣会関連の案内状・展覧会目録等を整理した年表、未公表・ネルペディア内部資料)
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来巣会案内状データベース(依田家所蔵の案内状をスキャン・OCR化し構造化したデータベース。1975~1997年の本展(第3回~第25回)・秋季展・来巣八王子展・五人展・明日の会展を収録。未公表・ネルペディア内部資料として保管)
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国高同窓会会報「たちばな」第16号、1988年8月25日発行、鳥越哲夫「友達の輪」
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来巣会15年の歩み(1987年発行15周年記念パンフレット)
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『来巣20th』(来巣会二十周年記念誌)、1992年5月20日発行、依田純「多くの出会いに恵まれて」
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ご親族からの情報提供、2026年9月16日(未公表・ネルペディア内部資料として保管)
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東京藝術大学未来創造継承センター大学史史料室への照会(2026年9月)への回答、および同室公開『東京芸術大学百年史 東京美術学校篇』第三巻、775~777頁・884~887頁(https://gacma.geidai.ac.jp/y100/)
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東京美術学校 編『東京美術学校一覧』昭和14至15年、東京美術学校、31・33・34頁(国立国会図書館デジタルコレクション、https://dl.ndl.go.jp/pid/1441609)
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ご親族からの書簡、2026年9月27日付(未公表・ネルペディア内部資料として保管)
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来巣会元会員への電話での聞き取り、2026年8月31日(未公表・ネルペディア内部資料として保管)
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「国立高校OB美術展の足跡」(掲示パネル・年表)、第30回国立高校OB美術展、2026年(第1回展の出品者欄・集合写真を参照。未公表・ネルペディア内部資料として保管)
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『美術年鑑』1989~1992年版・1996年版・1997年版、美術年鑑社(八王子市立図書館所蔵)来巣会の頁 ※1993~1995年版および1998年版以降は来巣会の掲載なし
※このページは調査の進行にあわせて随時更新されます。誤りのご指摘、資料のご提供など大歓迎です。