国立高校OB美術展(くにたちこうこうオービーびじゅつてん)
最終更新:2026年10月25日
「現在の出品者のほぼ全員が吉田先生の教え子で構成されており、まさに國高芸術の継承者なのです。」
2016年、第20回記念国立高校OB美術展にて配布された吉田先生紹介文より
掲載資料について
このページは、公刊資料のほか、ご縁者様よりご提供いただいた資料や聞き取り情報を含む個人アーカイブです。貴重な資料や情報のご提供に感謝し、それぞれの情報の性質と出典を明記したうえで、確認できた範囲を掲載しています。未確認の事項については、現時点での調査状況を記しています。なお、掲載資料には、ウィキペディア日本語版の出典基準を満たさないものも含まれるため、同版への転載・投稿を目的とするものではありません。また、多くの回について「分からない部分は分からないまま」記載しています。ご存じの方はぜひ情報をお寄せください。
国立高校OB美術展(くにたちこうこうオービーびじゅつてん)は、東京都立国立高等学校(通称「国高〈くにこう〉」の卒業生が運営する「一般社団法人 国立高校同窓会」に属する美術部OB会「国立高校OB美術部」が主催する展覧会。足跡パネルによれば、本展は同校で34年間美術科教諭を務めた吉田公を中心に、平成7年(1995年)第1回展を開催。以後、ほぼ毎年開催され、令和8年(2026年)に第30回を迎えた[1][2]。
概要
足跡パネルによれば、本展は美術部OB会有志の提案により、吉田公を中心に美術部に在籍した人たちの作品展として発足した[1]。当初は美術部出身者中心の集まりだったが、第3回展(1998年)以降は元美術部員に限らず広く国高OBに参加が呼びかけられるようになり、13名から最大40名へ増加し、分野も広がった。
2005年の第10回展からは「國高芸術」の名称が使われるようになり、現役の国高生の作品も並べて新旧交流を図る回もある[1]。吉田の没後(2001年)も本展は継続しており、2016年の第20回記念展の紹介文では「現在の出品者のほぼ全員が吉田先生の教え子で構成されており、まさに國高芸術の継承者なのです」と評されている。
前史(1965年頃)
1965年頃に「都立国立高校美術部同窓会展」が行われていた形跡があるが、詳細は資料が得られず不明である[1]。30年を経た1995年に本展(国立高校OB美術展)が発足しており、両者の間に直接の連続性があるのかどうかは分かっていない(後述「今後の調査課題」参照)。
沿革
| 年 | 回 | 出来事 |
|---|---|---|
| 1965年(昭和40年)頃 | (前史) | 「都立国立高校美術部同窓会展」が行われていた形跡がある。詳細不明[1]。 |
| 1995年(平成7年) | 第1回 | 吉田公を中心に発足(足跡パネルの記述による)。出品者13名(吉田公先生を含む)、三鷹市美術ギャラリー第3展示室にて11月28日〜12月3日開催。案内状は「幹事代表」の名で出されており、吉田公は出品者欄の筆頭に「先生」として載る。第30回展の足跡パネル[1]、依田家所蔵の案内状[13]と初日(11月28日)の集合写真[2]により開催が確認できる。 |
| 1997年(平成9年) | 第2回 | 6月3日〜8日、三鷹市美術ギャラリー第1展示室にて開催。出品者14名(吉田公先生を含む)で、案内状に「新しいメンバー4名」とある。案内状の連絡先は国立高校同窓会事務局[3][13]。 |
| 1998年(平成10年) | 第3回 | 6月開催、三鷹市美術ギャラリー。元美術部員に限らず広く国高OBに参加を呼びかけるようになる[1][3]。 |
| 1999年(平成11年) | 第4回 | 6月30日〜7月4日開催、三鷹市美術ギャラリー。出品者24名。絵画・版画にペーパークラフト・陶芸が加わる[1][3]。 |
| 2000年(平成12年) | 第5回 | 6月20〜25日開催、三鷹市美術ギャラリー[3]。 |
| 2001年(平成13年) | 第6回 | 6月20〜24日開催、三鷹市美術ギャラリー。4月に逝去した吉田公の遺作が展示される[1][3]。 |
| 2002〜2004年(平成14〜16年) | 第7〜9回 | 詳細記録未確認。この間、出品者数の増加に伴い七宝・ガラス工芸・刺繍・CG・木彫・織物・立体と多彩な作品が出品されるようになったとされる[1]。 |
| 2005年(平成17年) | 第10回 | 「國高芸術」の名称を使用開始。現役国高生の作品も展示して新旧交流をはかる[1]。 |
| 2006〜2008年(平成18〜20年) | 第11〜12回 | 詳細記録未確認。 |
| 2009年(平成21年) | 第13回 | 会場を現在の三鷹市芸術文化センターに移す。出品者数、最大の40名に達する[1]。 |
| 2010〜2011年(平成22〜23年) | 第14〜15回 | 詳細記録未確認。 |
| 2012年(平成24年) | 第16回 | 5月16日〜20日開催[10]。 |
| 2013年(平成25年) | 第17回 | 5月22日〜26日開催[10]。 |
| 2014年(平成26年) | 第18回 | 5月21日〜25日開催[10]。 |
| 2015年(平成27年) | 第19回 | 5月20日〜24日開催[10]。 |
| 2016年(平成28年) | 第20回(記念展) | 5月25日〜29日開催。吉田先生の遺作コーナーが設けられ、現役国高生の作品も展示されて新旧の國高芸術の交流が図られる[1][4][10]。 |
| 2017年(平成29年) | 第21回 | 5月17日〜21日開催[10]。 |
| 2018年(平成30年) | 第22回 | 5月16日〜20日開催[10]。 |
| 2019年(令和元年) | 第23回 | 5月15日〜19日開催[10]。 |
| 2020・2021年(令和2・3年) | 第24・25回 | 新型コロナウイルスの感染拡大により、開催されず記録もなし[1][10]。 |
| 2022年(令和4年) | 第26回 | 開催しなかった2020・2021年分も回数に含め、2022年に第26回展として再開。5月11日〜15日開催。出品者数を減らしての開催となる[1][10]。 |
| 2023年(令和5年) | 第27回 | 5月10日〜14日開催[10]。 |
| 2024年(令和6年) | 第28回 | 5月15日〜19日開催[10]。 |
| 2025年(令和7年) | 第29回 | 5月14日〜18日開催。コロナ前とほぼ同じ出品者数まで回復[1][10]。 |
| 2026年(令和8年) | 第30回 | 31名が出品。会場:三鷹市芸術文化センター地階第4美術展示室。足跡パネルが初めて掲示される[1]。 |
※第7〜9回・第11〜12回・第14〜15回の会場・日付・出品者数等の詳細は、現時点では確認できていない。国高同窓会公式サイトの展示作品紹介ページ(第16回〜第29回分、一部欠)により2012年以降の開催期間は概ね確認できたが、出品者数・出品作品の詳細記録はこのページには一次資料としては含まれない[10]。
参加者数・ジャンルの拡大
出品者数は、第1回(1995年)の13名、第2回(1997年)の14名[13]から、第4回(1999年)に24名、第13回(2009年)に最大40名まで増加した[1]。近年はコロナ禍を経て減少したのち回復傾向にあり、第30回(2026年)は31名。ジャンルも当初の絵画・版画中心から、陶芸・七宝・ガラス工芸・刺繍・CG・木彫・織物・立体・押し花・ライトアート・デジタル画・写真へと段階的に広がっている。
会場の変遷
| 期間 | 会場 |
|---|---|
| 1995〜2008年(第1〜12回) | 三鷹市美術ギャラリー(JR三鷹駅南口前コラル5階) |
| 2009年〜現在(第13回〜) | 三鷹市芸術文化センター地階 第4美術展示室 |
運営体制
本展は美術部OBOG会有志による幹事一同の運営で継続されている[1]。第30回展(2026年)の足跡パネルは、保存資料と、第1回の幹事代表と同じ昭和28年卒の出品者からの聞き取りをもとにまとめられた。
初期の運営体制は、案内状から次のように読み取れる。第1回(1995年)の案内状は幹事代表の名で出されており、連絡先も幹事代表個人である。第2回(1997年)の案内状の連絡先は、国立高校同窓会事務局(来巣会会員でもある垣本浩輔を含む)に変わっている[13]。なお垣本浩輔は、『美術年鑑』1996・1997年版で来巣会の事務所を置く会員(世田谷区、垣本方)としても記載されている[14]。
吉田公・来巣会との関係
足跡パネルによれば本展は吉田公を中心に発足したが、吉田がもう一つ主宰していた美術グループ「来巣会」およびその後継「幹の会」とは、会員・出品者の重なりがほとんどなく、団体としては別系譜だが、吉田を介して接点があった[5]。国高OB会の関係者の多くは来巣会の存在自体を知らないとみられ、吉田没後に幹の会へ名を連ねた国高関係者も依田純のみである。なお『美術年鑑』1996・1997年版では、国高関係者のうち垣本浩輔・小島和雄・吉岡正治・依田純の4名の略歴に「師吉田公」と記載されている[14]。吉田公という一人の人物が両方の結節点になっている、という関係の詳細は「吉田公」ページの「吉田公が遺した二つの場」を参照。
とはいえ、個人単位で見ると両者の重なりは意外と多い。確認できている来巣会の会員37名(「明日の会」の案内状にのみ氏名がある2名を除く)のうち、国高の卒業生・関係者の13名をここに記す。
- 吉田 公(国高美術科教諭、昭和21〜55年。のち昭和59年まで非常勤講師)[12]
- 松尾武夫(国高数学科教諭、昭和36〜55年)[12]
- 垣本浩輔(国高昭和27年卒)[11]
- 伊沢正夫(国高昭和23年卒 阿佐谷 伊勢ずし主人)[6]
- 鳥越哲夫(国高昭和27年卒)[6]
- 雨宮一正(国高昭和27年卒)[11]
- 依田 純(国高昭和30年卒 東芝本社勤務)[6]
- 小島和雄(国高昭和32年卒 立川高校教諭)[6]
- 津金 永(国高美術科教諭、昭和59年4月1日着任。吉田の後任)[10]
- 吉岡正治(国高昭和23年卒)[11][1]
- 村田英雄(国高昭和23年卒。故人。第1回展の出品者欄に記載)[1]
- 小林節夫(国高昭和22年卒)[11]
- 中川曠人(国高国語科教諭、昭和38〜56年。のち昭和57年まで非常勤講師)[12]
このうち松尾武夫・雨宮一正の2名は本展への出品が確認できていない[6]。吉田・津金は美術科、中川は国語科、松尾は数学科でそれぞれ国高の教諭を務めており、来巣会と国高美術部・本展との間には、単なる偶然を超えた人的な連続性が見られる。ただし、これはあくまで個々の会員の重複であって、来巣会という団体自体が国高OB会に知られている、という意味ではない点に注意。
吉田公先生の人柄(OBの証言より)
吉田先生に直接指導を受けた複数の同窓生に、その人柄を尋ねたところ、口を揃えたように「忌野清志郎の楽曲『ぼくの好きな先生』そのものだった」と評していた。毛糸のボンボンのついたスキー帽と自転車がトレードマークの先生は、見るからに気さくでひょうひょうとしていて、美術準備室で生徒の話を聞いていたことなども歌詞のイメージと重なり、ある卒業生は「忌野清志郎を国高生で吉田先生の教え子と思い込んでいた」と語った(歌詞本文は著作権の都合により掲載せず、証言・評判としての紹介にとどめる)。OGからは「カッコいい先生」、OBからは「話の分かる先生」という評が多く聞かれる[7]。
なお、「公」という名の読み方についても長らく誤解があり、同窓生たちも「コウ先生」「キミ先生」と呼んでいたという。「ただし」と読む事実は、吉田の葬儀の場で広く知られることとなる(詳細は「吉田公」ページを参照)[8]。
追悼文:依田純「吉田公先生を偲ぶ」
吉田先生の逝去(2001年4月29日)を受けて、国高同窓会報「たちばな」第42号(2001年9月5日発行)に、教え子であり来巣会会員でもあった依田純が追悼文を寄せている。国高在校時代から「来巣会」「幹の会」まで半世紀近くにわたる師弟関係の全体像が本人の言葉で語られている、ネルペディアにとっても核となる一次資料である[5]。
「吉田公先生を偲ぶ」
依田 純当OB美術会の柱である吉田先生は4月29日に亡くなられました。
先生は戦後間もない昭和21年から55年までの34年間国立高校で教鞭を執られ、先生の画業人生の中で最も大きなウェイトを占めているのは国立高校だと思います。
当時の美術部の部室は先生のアトリエでもあり、石膏像が沢山置かれて我々はそこでデッサンの基本を学び又先生の絵を吸収する場として活用していました。又そこには先生を慕って諸先輩達が連日訪れ美術談義や雑談に明け暮れていました。これも先生の飾り気の無い人柄と人望の現れだと思います。
私の在校生時代(昭和30年代)先生はまだ若かったせいかその画風は力強い輪郭と色調、ルオーを思わせる厚塗りの画肌で私たちにデッサンでは特に画面構成と線の重要性を身をもって教えて下さいました。
近年の先生の絵は繊細で柔らかく穏やかな独自の画風を確立されました。先生は散歩が好きで人が見向きもしない流木や落ち葉に興味を持たれ、それを細かく観察し、役目を終えた物から見事に美を再生されました。ある有名な芸術大学の教授が落ち葉の絵を観て「身が震える程素晴らしい」と絶賛されました。これは先生のやさしさと、自然に対する愛情の現れだと思います。
新たな展開として先生は芸術大学の友人と二人が中心になって昭和48年に「来巣会」(ライソウカイ)を発足され、銀座など都心で展覧会を積極的に展開され、著名なタレントなど多彩な人々との交流も生まれ大きな成果を収めましたが先生が病に倒れられ、25周年を期して平成9年に幕を閉じました。
一方地元の多摩地区の展開として先生が中心になって昭和60年に「幹の会」が発足され国立の画廊で毎年グループ展を開催しています。こちらは先生の遺志を継いで今後も継続する予定です。
私は定年直後に4年越しの入院生活を強いられ、生死を彷徨する病の結果、声を失ってしまいました。「声は出せなくても絵は描けるだろう」と言う諸先輩の励ましの言葉に、病室で点滴を打ちながらスケッチをしたり、病院の中で小さな個展を開いたりして苦しさを紛らして来ました。これも先生からよく言われた「継続は力なり」の言葉を噛みしめて頑張ることが出来た結果と感謝しております。
国立高校在学時代からはじまって、「来巣会」、「幹の会」と先生には半世紀近くの永い間お世話になりました。
改めて先生のお人柄を偲びながらご冥福お祈り申し上げます。平成13年6月20日
国立高校昭和30年卒業
今後の調査課題
1. 1965年展と1995年発足の関係
1965年頃に行われていた「都立国立高校美術部同窓会展」と、1995年発足の本展との間に、企画・人脈上の直接的な連続性があるのかどうかは分かっていない。30年の空白がなぜ生じたのかも不明。
2. 第7〜9回・第11〜12回・第14〜15回の詳細記録(一部解決)
国高同窓会公式サイトの展示作品紹介ページで第16〜29回の開催期間が確認できた[10]。残る第7〜9回・第11〜12回・第14〜15回については、同サイトの記録範囲(2012年〜)より前にあたるため、判明次第掲載する方針。
3. 『ぼくの好きな先生』と吉田先生の実像との一致度(一部確認)
OBの間で語り継がれている「忌野清志郎が歌った『ぼくの好きな先生』そのもの」という評判のうち、美術準備室での製作と絵具(画材)については既存の証言・資料とも符合する。2026年9月、ご親族からの情報提供により、歌詞に登場する「たばこ」については吉田先生が実際に喫煙者であったことが確認できた[9]。
一方、同じ歌詞にある「いつでもつまらなそうにキャンバスに向かってた」という部分については、ご親族の記憶とは異なるとの情報を得た。食後すぐにアトリエへ行きキャンバスに向かう習慣があり、「つまらなそうではなかったと思う」とのことである[9]。
関連項目
- 吉田公(足跡パネルでは本展発足の中心人物とされる。国高美術科教諭を34年間務めた)
- 来巣会(吉田がもう一つ主宰した美術グループ。本展とは別系譜)
- 東京都立国立高等学校(本展の母体となる学校)
- 依田純(国高昭和30年卒、来巣会会員。第6回展〈2001年〉出品者)
参考資料
「国立高校OB美術展の足跡」(掲示パネル・年表)、第30回国立高校OB美術展、2026年
依田家所蔵の第1回展〈1995年〉初日(11月28日)の集合写真(日付入り)、未公表・ネルペディア内部資料として保管
「依田純 参加展覧会 年表」(依田家所蔵資料)、未公表・ネルペディア内部資料として保管
「國高芸術2016 第20回記念国立高校OB美術展」吉田先生紹介文、2016年
国高同窓会会報「たちばな」第42号、2001年9月5日発行、依田純「吉田公先生を偲ぶ」
「国立高校OB美術展」出品者名簿(各回パンフレット等、依田純の親族の調査による。来巣会ページ「国立高校(国高)との関係」も参照)
国高OB美術部OBへの聞き取り(複数名、未公表・ネルペディア内部資料として保管)
ご親族による記録(未公表・ネルペディア内部資料として保管)
ご親族の情報提供、2026年9月16日(未公表・ネルペディア内部資料として保管)
一般社団法人国立高校同窓会「美術部OBOG会」(展示作品紹介ページ)(2026年9月閲覧)、および東京都立中央図書館所蔵『国高五十年史』(1991年3月31日発行)P.145
ご親族の書簡、2026年9月27日付(未公表・ネルペディア内部資料として保管)
『国高五十年史』、1991年3月31日発行(東京都立中央図書館)。資料編の年表(pp.267〜269)・職員一覧を参照
第1回(1995年)・第2回(1997年)国高OB美術展の案内状(依田家所蔵、未公表・ネルペディア内部資料として保管)
『美術年鑑』1996年版・1997年版、美術年鑑社(八王子市立図書館所蔵)来巣会の頁
※このページは調査の進行にあわせて随時更新されます。誤りのご指摘、資料のご提供など大歓迎です。