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久保田 九一(くぼた きゅういち)

最終更新:2026年9月30日

「このお茶を沢山飲めば絵が上手くなるよ」

東芝府中工場美術部会報「ら・せぞん」
1993年12月特集号
石塚 俊三「久保田九一先生の個展によせて」より

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久保田九一(くぼた きゅういち、本名の読みは「ひさかず」とする資料もある)は、明治44年(1911年)茨城県生まれの洋画家。東京都府中市在住。依田純の「第二の師」として知られ、東芝府中工場美術部の顧問・指導者を長年務めた[1][3]。


経歴

年 出来事
1911年(明治44年) 茨城県に生まれる[1]。
1928年(昭和3年) 川端画学校卒業[1]。
1929年(昭和4年) 自己申告経歴では「第15回二科展出品」とされる。国立国会図書館所蔵『二科70年史 1914-1943』(日本経済新聞社、社団法人二科会編)で確認を試みたが、同書は沿革史であり出品者名簿ではないため、記載の有無は確認できていない(未確認)[1][8]。
1930年(昭和5年) 自己申告経歴では「第16回二科展出品」とされる。上記と同じ理由で未確認[1][8]。
1931年(昭和6年) 河北新報「おさなき叫び」にカットを連載。自己申告経歴では「第1回独立美術展出品、以後18回展迄出品、独立美術協会賞受賞」とされる。東京文化財研究所編『昭和期美術展覧会出品目録 戦前篇』(中央公論美術出版、2006年)により、第1回展(第十二室)に「森の出口」「橋のある風景」「村の道」を出品したことが確認できた。以後、同書収録範囲の最終回(第14回、昭和19年)まで多くの回で出品が確認できる一方、自己申告との細かな食い違いも判明している。詳細は「独立美術協会 出品歴」の節、および「今も分かっていないこと」を参照[1][10]。
(戦後) 自由美術会員となり約10年在籍の後退会。その後「三彩会」などを結成し数人で展覧会を開く(自己申告経歴。裏付け未確認)[1]。
(時期不明) 東芝府中工場美術部の顧問・指導者を務める(経緯・開始時期は不明。「今も分かっていないこと」参照)[3]。
1960年(昭和35年) 依田純が東芝府中工場美術部にて師事[7]。
1968年(昭和43年)6月21日〜7月3日 第21回創造展(創造美術会)に洋画部門で「群」を出品し、会員賞を受賞。同展では弟子の依田純も「山塊」で新人賞(クサカベ賞)を受賞しており、師弟そろっての入賞であった[5][6]。
1984年時点 個展など数十回開催(多摩信ギャラリー個展、次男画廊「画廊岳」、独立10人展等)。無所属[1]。
1993年(平成5年)12月13〜18日 「久保田九一 画業60周年記念展」を画廊アート・プラザ(東京都中央区日本橋)にて開催。元部員らが再結集し、記念小冊子「ら・せぞん」特集号を発行[3][4]。
1994年 または 1995年 逝去(下記「今も分かっていないこと」参照)。
2005年(平成17年)12月5〜10日 「ら・せぞん展」を画廊アート・プラザにて開催、没後10年を偲ぶ[4]。

独立美術協会 出品歴

以前、『近代日本アート・カタログ・コレクション 独立美術協会 画集・図録編』(ゆまに書房)を精査した際には久保田九一の名を確認できなかった[9]が、今回あらためて東京文化財研究所編『昭和期美術展覧会出品目録 戦前篇』(中央公論美術出版、2006年)を精査した結果、独立美術協会展への出品歴について、以下の具体的な出品作品・室番号が確認できた[10]。

回 昭和 出品作 室
第1回 6年 森の出口/橋のある風景/村の道 第十二室
第2回 7年 石切場/雑司ケ谷風景/雪景 第六室
第3回 8年 山手風景/風景/工場地帯 第六室
第4回 9年 廃港 第十三室
第5回 10年 風景 第十三室
第6回 11年 春/海邊 第五室
第7回 12年 砂丘/海邊 第十四室
第8回 13年 (出品記録なし) ―
第9回 14年 (出品記録なし) ―
第10回 15年 家族/三人 第一室
第11回 16年 風景/農夫 第十三室
第12回 17年 母と子/海邊 第八室
第13回 18年 海女/砂上 第十室
第14回 19年 子供/海女 (記載なし)

第1〜3回は毎回3点、第4・5回以降は1〜2点と出品点数が変化している。なお本書「戦前篇」は第14回(昭和19年)までの収録であり、自己申告にある「以後18回展迄出品」の後半部分(第15〜18回)はそもそも今回の調査対象外である。表記や記載漏れをめぐる論点は「今も分かっていないこと」を参照。


指導・人柄

弟子たちの回想によれば、久保田は石膏デッサンを重視し「まず石膏デッサンをやりなさい」「100枚位描いたら少しは形がとれるようになる」と指導していたという[3]。「このお茶を沢山飲めば絵が上手くなるよ」という口癖が弟子たちの間で親しまれていた[3]。政治・宗教・哲学・文学にも通じ、アトリエ(府中市分倍河原)では美術以外の議論も盛んに交わされたとの証言がある[3]。

「ら・せぞん」の名前について
東芝府中工場美術部の機関誌・記念展タイトルとして使われた「ら・せぞん」の名は、久保田九一のアトリエでの雑談の中から美術部の機関誌を発行しようという話になり、当時フランス文学に熱中していた相川祐一が発案したものだという(フランス語で「季節」を意味する“la saison”に由来するとみられる)。この経緯は、依田純が1993年の「久保田先生の画業60周年によせて」で証言している[3]。


出品作「群」について

東京文化財研究所所蔵の第21回創造展図録(1968年)により、久保田九一の同展出品作が「群」(洋)であったことを画像で確認した。弟子・依田純の出品作「山塊」(洋)と並べてみると、いずれも鋭角的な稜線・多角形の断片を組み合わせた造形で、群れなす・積み重なる塊状のモチーフを幾何学的に解体して描くという構図の発想が共通しており、師弟の様式的な近さがうかがえる[6]。


依田純による回想(抜粋)

久保田九一の教え子・依田純は、1993年12月発行の東芝府中工場美術部会報「ら・せぞん」特集号(久保田先生画業60周年個展記念号)に、恩師への回想文「久保田先生の画業60周年によせて」を寄せている。全文は東芝府中工場美術部ページに掲載しているが、久保田の人柄がよく伝わる一節をここに引用する[3]。

「先生はいつも私達を鷹揚に迎えてくださって、アトリエを解放され、美術だけでなく私的な問題にも真剣に相談にのって頂けるので、アトリエ通いのメンバーは多分に先生に感化された面も多いことと思います。(中略)先生の手作りの四角い木製の腰掛けに座りながらの制作や雑談になると時間を忘れる程でした。」

「また、アトリエを離れて北アルプスの登山や安曇野などでのスケッチ会では、先生は夜明けを待ち切れず厳しい寒さにもめげず、風景に感動的に取り組まれておりました。その姿はいまも目にうかびます。」


所蔵作品

府中市美術館に4点収蔵されている[2]。

作品名 制作時期 技法・材質
農家 昭和16年(1941) キャンバス、油彩
早春 昭和21年(1946) キャンバス、油彩
風景 昭和25年(1950) キャンバス、油彩
椅子に座る女性 昭和50年(1975) キャンバス、油彩

今も分かっていないこと(調査中の論点)

1. 二科展出品歴の裏付け

『多摩の作家250人』(1984年)に記載された「第15回・16回二科展出品」(昭和4・5年)について、東京文化財研究所編『昭和期美術展覧会出品目録 戦前篇』の二科会セクションの収録範囲は昭和6年〜18年(p.215〜)であり、昭和4・5年分はそもそも本書の対象外であった。確認した『二科70年史』も出品者名簿ではなく沿革史であるため、久保田九一の二科展出品については依然として確認も否定もできていない。この経歴自体が本人・遺族からの自己申告に基づく記述である可能性がある。

2. 独立美術協会「以後18回展迄出品」との食い違い

自己申告は「第1回から18回まで連続出品」と読める書き方だが、実際には東京文化財研究所編『昭和期美術展覧会出品目録 戦前篇』に第8・9回(昭和13・14年)の出品記録が見当たらない。本書の索引・本文いずれにも記載がなく、単純な記載漏れというより、これらの回は実際に出品しなかった可能性がある。「以後○回迄出品」という経歴書きは業界の常套句的な誇張表現であることも多く、断定的な理由づけはせず、自己申告と一次資料の間にこのような食い違いがあるという事実のみを記録しておく。また、本書「戦前篇」は第14回(昭和19年)までの収録のため、第15〜18回分(自己申告にある「以後18回展迄」の後半部分)はそもそも今回の調査対象外である[10]。

3. 表記の変化について(「久保田久一」→「久保田九一」)

『昭和期美術展覧会出品目録 戦前篇』では、第14回のみ他の回と表記が異なり「久保田九一」(他の回は「久保田久一〔九一〕」)となっている。索引ページにも「久保田久一→久保田九一」という参照指示があり、晩年(少なくとも戦前の終わり頃)に表記が整理された可能性があるが、確定はできない[10]。

4. 索引の記載漏れ(第13回)

索引(p.53)には「久保田九一〔久一〕 独1・2・3・4・5・6・7・10・11・12・14」とあり、第13回が抜けている。しかし本文(p.504付近)には第13回の出品作「海女」「砂上」(第十室)が明記されており、索引側の記載漏れと考えられる。東京文化財研究所へ問い合わせ予定で、回答があれば追記する[10]。

5. 没年の食い違い

府中市美術館の作家データでは没年を1994年としている一方、「ら・せぞん展」(2005年12月開催)の案内状には「没後10年を偲んで」との文言があり、これは1995年没を示唆する[2][4]。1年のズレがあり、現時点でどちらが正しいか確定できていない。

6. 東芝府中工場美術部との関係の経緯

久保田がいつ、どのような経緯で東芝府中工場美術部の顧問・指導者となったのかは全く分かっていない。東芝自身にもこの美術部の活動記録が残っておらず、部の存在を直接証明する公的資料は確認できていない(非公表の集合写真等、家族・関係者保有の私的資料のみ)[3]。

7. 「きゅういち」か「ひさかず」か

『多摩の作家250人』掲載時の読みは「くぼたひさかず」、府中市美術館では「くぼたきゅういち」となっており、どちらが本来の読みか(あるいは両方使われていたのか)未確認[1][2]。


参考資料

  1. 『多摩の作家250人:たましんギャラリーの10年を彩った芸術家』たましんギャラリー、1984年(国立国会図書館デジタルコレクション)
  2. 府中市美術館収蔵作品データベース(jmapps.ne.jp)
  3. 東芝府中工場美術部会報「ら・せぞん」1993年12月特集号(久保田先生画業60周年個展記念号)
  4. 画廊アート・プラザ「久保田九一個展」案内(1993年)、「ら・せぞん展」案内状(2005年)
  5. 『美術年鑑』1969年版、美術年鑑社(国立国会図書館デジタルコレクション)-第21回創造展受賞記録
  6. 東京文化財研究所所蔵 第21回創造展図録(1968年)/創造美術会発行 新人賞(クサカベ賞)賞状(依田純宛、昭和43年6月30日付、依田家所蔵)
  7. 依田純 経歴資料(ネルペディア内部資料)
  8. 『二科70年史 1914-1943』日本経済新聞社、社団法人二科会編(図書館調査、2026年)
  9. 『近代日本アート・カタログ・コレクション 独立美術協会 画集・図録編』第1巻(昭和6~9年)・第2巻(昭和10~14年)、ゆまに書房(図書館調査、2026年)
  10. 東京文化財研究所編『昭和期美術展覧会出品目録 戦前篇』(中央公論美術出版、2006年)

※このページは調査の進行にあわせて随時更新されます。誤りのご指摘、資料のご提供など大歓迎です。